チィが、出ていった。
遠くの集落へ、嫁に行ってしまった。
『名問いの儀式をしてはならぬ』
おばばの言う理由が、これなのか。
あの時既に、こうなることが決まっていたというのか。
何故、チィでなければならなかったんだ。
こんなことなら、おばばの許しなど得ることなく、名を尋ねてしまえば良かった。
「2人で集落を出よう」
そう言ったとき、チィは淋しげに首を横に振った。
涙すら、見せてはくれなかった。
チィにとって、俺はそんな存在だったのか。
特別だと思っていたのは、俺の勘違いだったのか。
チィがいなくなって、俺は何故だか女たちから誘われることが多くなった。
まだそんな気分にはなれなくて、断り続けている。
「そんなに、チィがいいの?」
俺だって、他の女の肌を知らないわけじゃない。
最初に抱いたのはやけになってのことだが、兄たちが言うほど、別にいいものでもなかった。チィが嫉妬してくれるのではないかという、淡い期待はもろくも崩れた。
『シュウの子は、たくさんいた方がいいよ。狩りがうまい子が増えて、みんながいつもお腹いっぱいになれる』
無邪気にそう言うチィが癪にさわって、時々は他の女を抱いた。
それでも、俺はやっぱりチィの方が良かった。
返事をしなかったから、誘いをかけてきた女は、呆れて行ってしまった。
一部始終を眺めていた女が、忘れるしかないよ、と腕の中の赤子を揺らしながら言う。
それができるなら、こんなに悩まない。
ふてくされた俺に、女は苦笑した。
チィにとって、俺が全てではないことはわかっていた。
最近、チィがカヤのことばかり気にしていたことにも気付いていた。このままだと、チィの気持ちはカヤにいってしまうかもしれないと怖れてもいた。
これでもう、2人が一緒にいるところを見なくて済む。
それくらいしか、自分の気持ちを慰めることはできなかった。
「あの子、待ってたんだよ。あんたに名を尋ねられるのを」
踵を返しかけていた俺は、思わず女を見た。
「女にとっては、憧れだからね。まぁ、あの子はあんただけでいいとは思ってなかったけど」
不覚にも涙が浮かんだ。
俺はその場から走り去った。
チィ。
今、どうしてる?
新しい集落にはもう、馴染んだか?
皆は、優しくしてくれるか?
会いたいよ、おまえに。
俺は、チィがどこの集落へ行ったのかを、知らない。
おばばは最後まで、俺に何も教えてはくれなかったのだ。