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番外編 「朔の夜」

 いつもの言い争いだった。
「大っ嫌いっ」
 かつて、ナウラがひたすら言い続けた言葉。
 カヤと寝るようになっても、言い争いがこじれるとそう叫んで、家を飛び出していた。
 今夜が朔の夜だと気付いたのは、外へ出てから。
 辺りは、闇。
 けれど、ナウラには光など必要なかった。そのまま怒りにまかせて、歩き続ける。
『朔の夜には、外へ出てはならぬ…』
 郷のおばあに、きつく言われていたのを思い出す。
 やっぱり家へ帰ろう、そう思ったナウラの耳に、かすかな音が届いた。
(誰か、いる)
 こんな夜に出歩く者は、この郷にはいない。
 ならば、それは…。
『土蜘蛛にさらわれるぞ』
 土の下に暮らす、異形の一族。人とは距離を置き、闇の中で生きている。一度土蜘蛛に捕らわれたら、二度と地上には帰れないと言う。
 闇夜に目が利く土蜘蛛に目を付けられたのなら、逃げる術はない。
 ナウラは、家を飛び出したことを今更のように後悔した。
「新しく郷へ来た者か」
 恐ろしい存在と聞かされていた筈の男の声は、何故か優しい響きだった。
「家まで送ってやる」
 女と見れば、さらうのではなかったのか。それとも、たばかって地中へと引きずり込もうというのか。
「…自分で帰れます」
 闇夜を見通すことはできなくても、家の場所ならナウラにはわかる。気丈に答えた声が震えているのに気付いた男は、可笑しそうに笑った。
「あぁ、そういう力を持っているのだったな」
 屈託のない、朗らかな笑い声だった。
「なら、気を付けて帰れ」
 それきり、男の気配は消えた。
 それを確認すると、ナウラは全力疾走で、家へと向かった。

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