老子・荘子

老子と荘子は、中国の人で、紀元前4世紀頃(春秋戦国時代)に生きていた思想家です。
思春期に入門書を読んだ程度ですが、私の人格形成に少なからず影響している考え方です。
ここでは、私なりの言葉で、老荘の思想についてご紹介したいと思います。

老子や荘子は、「道」を説いたことで、道家(どうか)と呼ばれています。
「道」とは何でしょう。
老子は、すべてのものの源であるとし、荘子は、あらゆるものに道があると説きました。
なんだか禅問答のようですね。
まぁ、難しいことは置いておいて、馴染みのある言葉から始めてみます。

「千里の行(たび)も、足下(そくか)より始まる[老子64章]」

  千里の道も一歩から、のことわざの元になったものです。
  どんなに長いマラソンも、右、左、右、左、と足を動かしていれば、
  いつかはゴールする、ということですね。

「禍(わざわい)は福の倚る(よる)所、福は禍の伏す所[老子58章]」

  私の座右の銘である「禍福は糾える(あざなえる)縄の如し」ということわざは、
 『史記』に書かれているそうですが、同じ意味合いですよね。
 (幸福と不幸は、寄り合わせた縄のように交互にやってくる、の意)
  幸福だからといって油断していると不幸がやってくるし、
  不幸な出来事だと思ったことが、幸福に転じていた、
  運命がどう変わっていくかは、誰にもわからない、という意味です。
  意味は違いますが、「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」も似たような言葉として、
  私は、自分への励ましと、戒めのために座右の銘としています。

「足るを知るの足るは、常に足る[老子46章]」

  欲望とは果てのないもの。欲望のままに追い求めれば、いつかその人は壊れる。
  でも、これで良し、と満足するならば、いつでも満ち足りることができる。
  似たような言葉に、「足るを知る者は富む[老子33章]」
 「足るを知れば辱められず、止まるを知れば危うからず[老子44章]」があります。
  欲は、人を成長させる大事な思いだとは思いますが、
  とめどない欲は、やはり不幸しか待っていないような気がします。
  適度な欲、というのは、線引きがとても難しいですが、
  幸不幸は自分の心が決める、という言葉もあることですし、
  自分を成長させる程度の欲だけで満足しようと思っています。

「井蛙(せいあ)は以て海を語るべからず[荘子・秋水編]」

  井の中の蛙(かわず)、大海を知らず、のことわざです。
  自分の回りだけの狭い世界が全てだと思っている者には、
  外の大きな世界のことを知ることはない、の意。
  独りよがりの考え方や、自分たちグループの考え方にばかりとらわれていると、
  自分を成長させてくれる機会を得ることができない、ということですね。
  驕らずに、人の意見を聞くということは、難しいことですけれど、
  自分自身のためには、ぜひそうありたいと思っています。

「無用の用[荘子・人間世編]」

  役に立たないように見えるものが、実は大切な役を果たしているという考え方。
  回りから無用の物とされていても、
  それが存在するからには、存在する価値、有用性があるということです。
  世の中に無駄なことなど何もない、と昔の人は言いました。
  全ての物は、何かの役に立っている、ということですね。

「朝三暮四(ちょうさんぼし)[荘子・斉物論編]」

  この言葉は、うまい言葉で人を騙すことの意味でよく使われますが、
  本来は、実際は同じであるのに目先の違いにとらわれて、
  真実を見失ってはいけない、という考え方です。
  世の中には様々な価値観があるけれども、
  見方や立場が変われば価値観は変わる。
  そういったものに惑わされて一喜一憂してはいけない、ということですね。
  平和な時には、人殺しは大罪ですが、戦時には、敵兵を殺せと命じられる。
  でも、平和な時も、戦時にも、人の命の尊さは同じ筈。
  時代が変われば、考え方も変わる。ならば、真実はどこにあるのか。
  荘子は、すべてのものには同じ価値がある、
  真実の姿はみな同じ、と説いています。

まずは、有名な言葉だけを取り上げてみました。
少しずつ増やしていこうと思います。


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